祖父が、狭山市民芸術祭「狭山にゆかりのある文化人」の企画に特集されましたので、感謝を持ってその記事を掲載いたします。
1905(明治38)年~1979(昭和54)年
1. 経歴・狭山市とのかかわり
入間郡柏原村に生まれる。本名は儀平。
18~19歳頃から絵を描き始め、狩野光雅に師事し日本画家を志す。
しかし、生家が大地主であり人望もあったことから周囲の人々に推されて政治の世界に入り、画業に専念することができなくなる。柏原村議会議や 柏原村長、狭山市議会議員を歴任。また、狭山市教育委員、狭山市文化協会会長、狭山市史編さん委員なども務めた。
2. 主な業績
①日本画家
日本美術院に所属し、奥村土牛や山口蓬春とも親交があった。
こでまりや鯉の絵を得意とし、鯉を描いた「遊」で第32回院展に入選する。また日本画院展にも入選歴がある。狭山市所蔵の作品は、「自画像」「遊」。
狭山市市民会館建設の際、大ホール緞帳の原画を手がけ、入間川、秩父連山、つつじなど、
狭山を象徴するものを取り入れ描いたが、西陣織の緞帳の完成を見ることなく亡くなる。
また、狭山市内の菓子店からの依頼を受け、店の包装紙の絵も描いた。
②地方行政・文化の普及
戦前、柏原村議会議員から政界入りし、1942(昭和17)年から1944(同19)年まで柏原村長を
務めた。戦後は、狭山市議会議員として地方行政に携わる。
1969(同44)年の市制施行15周年記念式典では、多年にわたり市政に貢献したことにより
市政功労者として表彰された。
1957(同32)年、狭山市文化財保護条例が制定された際、文化財調査委員に委嘱される。
また、1961(同36)年、狭山市文化団体連合会の前身である狭山市文化協会発足の際には、
初代会長に就任し、広く文化の普及に努めた。
3. 特筆
『広報さやま』で1966(昭和41)年8月号から「史跡文化財めぐり」の連載が始まり、
その執筆を務めた。第1回は「奥州道」を取り上げている。この連載は1974(同49)年
2月号まで76回にわたった。
最終回で氏は「わがふるさと狭山にりっぱな史跡と文化財が多くあることに喜びを持ったのであります。(中略)史跡・文化財のご紹介、解説、その取扱いは非常に困難があるもで、資料すなわち文献的裏付けがなければならず、資料集めは必然的なもので苦労続きでありました」と書いている。この連載により、史跡や文化財に関心を持つ市民が増え、文化財保護の重要性が徐々に理解されるようになったことは、氏の残した大きな功績である。
<参考資料> 狭山市史現代資料編・通史編Ⅱ 文責・張替絹子 2020.2
鯉の絵は、祖父の日本画作品(年代不詳)である。
狭山市立博物館の設立当時、狭山市より祖父の大作の寄贈を打診されていた。
そんな時、偶然実家の蔵から出て来た作品である。
巻いた状態で出て来たので、カビや剥落が多く、私が修復した経緯がある。
自画像は画家にとって個人的な部分が多く、何歳頃どんな経緯で狭山市所蔵に
なったのかが興味深い。
物事は必然性をもって起きる。この時期なぜ祖父の事を調べたり聞いたりする事
になったのか、私が日本画を描くことになったのは、祖父の影響が大きい。
その変遷を初めて知ったのは、大きな収穫であった。
私がまだ高校生の時に他界したので、かれこれ40年だろうか。
親族が誰ひとり誕生日も憶えていなかったのに、ご苦労が多くあったことと存じます。
この場を借りて、心より感謝申し上げます。
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