楽しみにしていた「琳派ー光悦と光琳」に行ってきました。それに琳派の名品所蔵が多いMOA美術館。愛して止まない琳派の作品に出会えることは、刺激的でいて上質な癒しを感じます。リーフレットにも掲載れている、光悦の料紙装飾の古今和歌集絵巻は宗達とのコラボ作品、いつ観ても天才二人の崇高な輝きを感じずにはいれない。
そして宗達と言うと「たらしこみ」を使った豪放な作品をイメージするが、今回展示の伊勢物語 西の対 は何気ない小さな作品だが、宗達ならではの構成と細部の描写には、ドキドキしてしまった。
MOAには「紅白梅図屏風」が所蔵されていることは有名だが、「秋好中宮図」「草紙洗小町図」は光琳の懐の深さや、軽やかな速度感のある線にも感嘆。
抱一の「藤蓮楓図」は艶やかさが現代にも繋がる美を感じました。
いつもは熱海側からの入口を利用して、少し宗教色を感じてしまっていましたが、今回は三階の入口から入りましたので、美術館自体のイメージも違って、とても新鮮でした。
今年の夏は早くも酷暑の気配、好きな作品に会いに、また新しい作品との出会いを、快適な空間の美術館に行かれてはいかがでしょうか。
きっと素敵な時間を過ごせることと思います。
最後になってしまいましたが、西日本豪雨で数多くの方々が犠牲になりましたこと、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。また、被災され避難生活を強いられてしまった多くの方々に、心よりお見舞い申し上げます。
「琳派について」
本阿弥光悦 / ほんあみ こうえつ (1558 - 1637)
生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家。工芸家、書家など、様々な顔を持つアーティストで、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きいものがあります。また書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1 人として知られ、光悦流の祖となっています。洛北鷹峯に、一族や裕福な町人層らとともに移り住み、芸術村を創設、琳派四百年はここから始まる。
俵屋宗達 / たわらや そうたつ ( ?- 1640 頃)
京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたと考えられています。「風神雷神図」のような装飾的大画面のほかにも、水墨画では輪郭線を使わない没骨法や墨の滲みなどを利用した「たらし込み」の技法で、独特の画調を作り上げています。
当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようです。
尾形光琳 / おがた こうりん (1658 - 1716)
京都の高級呉服商「雁金屋」を営む尾形宗謙の次男として生まれました。その非凡な感覚は、幼少期、富裕な家庭環境のもと、超一流の能や書、絵に親しみ、狩野派の画法も学びました。また弟、乾山の焼物の絵付や小袖、蒔絵の図案を手がけ、工芸にも優れた作品を残しています。光琳文様」と言う言葉を生み、現代に至るまで日本の芸術に与えた影響は大きいといわれます。
酒井抱一 / さかい ほういつ (1761 - 1829)
姫路城主、酒井忠仰の次男として江戸藩邸に生まれ、早くから俳諧や書画に親しみ、狩野派、浮世絵、円山派、土佐派など諸派の画風を学びました。尾形光琳に私淑した画家で、光琳の墓石を建立したり、百回忌の法要も営んだりしています。37歳で西本願寺の文如上人に随い出家もしていたようです。
「私淑」
「孟子離婁下」より。私ひそかに淑よしとする意
直接教えを受けたわけではないが、著作などを通じて傾倒して師と仰ぐこと。
尾形光琳は俵屋宗達に、酒井抱一は尾形光琳に私淑しました。
(直接指導を受けたことがある人に対して用いるのは誤りだそうです。